バルト三国の中央に位置する森の国ラトビアを2026年6月、旅しました。中世から700年以上も列強に支配されながら、独自の暮らしと文化を紡いできました。首都リーガにある国会議事堂「サエイマ (Saeima)」前には、1991年にソ連からの独立回復と現在までの歩みを示すパネルが10枚、置かれていました。少し足を止めるだけでも、ラトビアの苦難と不屈の歴史が伝わってきて、自由の大切さをかみしめます。
ラトビア国会議事堂「サエイマ」

国会「サエイマ」は最初に独立した4年後の1922年、スタートしました。ソ連の占領などで停止、独立を回復した2年後の1993年に復活しました。「サエイマ」とはラトビア語で「集まり」の意味です。
国会前の広場は1990年前後、ソ連からの独立回復運動「歌う革命」の重要な舞台でした。ラトビアは1990年5月4日、独立回復を宣言します。国内外で緊張が高まるなかソ連特殊部隊は1991年1月、リーガを襲撃します。
50万人の市民がリーガに集まり、「トラックと焚き火と歌」を支えに非暴力で戦車に立ち向かいました。ソ連は制圧を断念したものの犠牲者は出て、取材中のジャーナリスト1人を含む9人が亡くなりました。パネルからは1980年代後半からの緊迫した様子と、独立回復後の歩みが見て取れます。
民族の覚醒(National Awakening)1986-1988

ソ連占領下のラトビアは1985年、ソ連の政治改革「ペレストロイカ」が始まってから自由を求める動きが表面化します。
占領の不当性を告発した人権団体「ヘルシンキ86」、環境破壊への抗議から政治運動へと発展した「環境保護クラブ(VAK)」、知識人や市民が結集した最大の組織「ラトビア国民戦線(LTF)」などが誕生しました。これらの組織が原動力となり、非暴力での独立へと進んでいきました。
自由の熱望(Desire for Freedom)1940-1989

第二次大戦中の1940年、独ソの密約によってラトビアはソ連に併合され、占領が始まりました。反体制派の弾圧、シベリアへの強制連行など、「悪夢」のような凄惨な時代を生きることになります。抑圧を耐え忍んだ苦難の記憶は、1980年代後半に爆発する独立運動の原動力となりました。
国家の継続(Continuity of the State)1940-1990

ソ連占領下でもラトビアが国家として法的に存在し続けるという「法的継続性の原則」は、西側50カ国以上に承認されていました。
- 特命全権公使:在英公使カールリス・ザリニュシュ(Kārlis Zariņš)に国益を守る特命権限が与えられ、彼は亡くなるまで外交の中心的役割を果たしました。
- ラトビア外交団:外交官は米仏英などで任務を続け、占領の不法性を国際社会に訴え続けました。
- 亡命ラトビア人:海外へ逃れた人々も言語や文化を守り、ラトビアが法的に存続していることを証明し続けました。
議会への道(Parliamentary Way)1989-1990

ラトビア国民戦線(LTF)は1989年から1990年、一連の選挙で快進撃を続けます。ソ連人民代議員選挙からラトビア最高評議会(当時の国会にあたる組織)選挙まで、LTFの支援候補や独立派が連勝しました。過半数を大きく上回る議席を獲得、平和的な独立回復への主導権を握ることに成功しました。
宣言の作成者(Authors of the Declaration)1990

ラトビア最高評議会選挙での勝利により、平和的な独立回復への道が開かれました。1990年2-3月、エギルス・レヴィッツ(Egils Levits)ら法学者の協力を得て、ラトビア国民戦線(LTF)が原案を作成しました。1940年のソ連編入を不法とし、ラトビア共和国が国際法上は存続していたことを示し、1922年憲法の一部を復活させました。
決定的瞬間(Pivotal Decision)1990年

ラトビア最高評議会で1990年5月4日、「独立回復に関する宣言」が、可決に必要な134票を上回る138票の賛成で可決されました。ソ連大統領ゴルバチョフは宣言を違法としましたが、ラトビア側はこれを無視して独自の国家体制整備を進めました。
自由への代償(Price of Freedom)1990-1991

独立宣言後にはソ連の圧力に直面し、緊迫した時期が続きました。ソ連はラトビアを再び支配下に戻すため、特殊部隊オモン(OMON)などを動員して挑発や重要拠点の襲撃を繰り返しました。ソ連軍の侵攻を阻むため1991年1月、市民が国会やテレビ局などの重要施設をバリケードで囲み、非暴力で守り抜きました。ソ連が崩壊した1991年8月、ラトビアは完全独立を達成しました。
二重権力の時代(Period of Dual Rule)1990-1991

1990年5月から1991年8月は、新しいラトビア共和国とソ連(USSR)の行政構造が並存しました。国内にソ連軍が駐留し続け、西側諸国も完全な独立回復の認識には慎重でした。1991年には国民に独立の是非を問う世論調査とソ連側による国民投票が行われ、独立への意思が示されました。
足かせを外す(Unshackling)1991-1994

1991年末までに93カ国がラトビアを承認、同年9月17日には国連へ加盟しました。1993年6月、独立回復後初となる民主的な国会選挙が実施され、投票率は約90%に達しました。1994年8月にはロシア(旧ソ連)軍の最終部隊が退去し、独立が完了しました。
西側への復帰(Return to the West)

独立後は自由主義と市場経済への移行を進めました。ソ連占領期に奪われた市民権の再定義や、不法に没収された財産を元の所有者へ返還する法整備が行われました。EUとNATOには2004年に加盟、住民投票では約67%がEU加盟を支持しました。
独立前の悲劇と混乱はもちろん、独立後も絡まった糸をほぐすような、気の遠くなるプロセスの線上に現在があるーー。そんな重さをひしひしと感じました。

ラトビア バルト三国の中央に位置する。人口180万人。面積は約6.5万km²で、九州と四国を足したぐらい。国土の半分が森林。中世からドイツやポーランド、スウェーデン、ロシアなどの支配を受け、20世紀には独ソに占領された。1991年にソ連から独立を回復。公用語はラトビア語。通貨はユーロ。
「バルト海の真珠」と呼ばれる首都リーガは13世紀からハンザ同盟に加盟し、バルト海交易の拠点として栄えた。ドイツ商人らの営みを今に伝える街並みは「リーガ歴史地区」として1997年、ユネスコ世界遺産に登録された。北緯57度はモスクワや米アラスカ州南部と同程度。人口は60万人ほどで、バルト三国では最大。
(取材協力:ラトビア投資開発公社<LIAA>観光部、フィンエアー)







